今こそ科学的探求学習を
また新刊が出ましたね。
森分孝治『社会科授業構成の理論と方法』を、筆者が解釈し、改良を加えた理論を紹介している。
森分さんは、
40年前の平均的な社会科の授業は、網羅主義社会科37
で、それは
「教材過剰」「事象の断片的羅列的学習」「転移しない知識」「知的に挑戦しない面白くない授業」という4つの課題37
を抱えていて、
社会的事象を認識するということは、その事象を構成する諸々の事実の総体を知るということであり、その事象について、より詳しくより概念内容の豊かな言葉によって学習するときその認識は深まる、という一つの社会認識形成の論理40
が元凶であるとしていた。(『社会科授業構成の理論と方法』より)
つまり、
よりたくさん知れば、社会的事象をより正しく認識できますよ
だから知識を網羅しましょう
という考え方のもとで授業が行われてきた。
そして筆者は、ALが推進される昨今、
(授業の)見た目はもしかしたら40年前とは大きく変わったのかもしれない。しかし…論理それ自体は全然変わっていないのではないだろうか39
と指摘したうえで
科学的探求学習のようにこの事態に挑戦していこうとする授業を、昨今の教育学は壊すような主張をする傾向にあるから、ますます事態は深刻になるかもしれない40
として、科学的探求学習の必要性を訴えている。
つまり、
授業は先生による網羅から子どもによる網羅に変わっただけであるうえに、
子どもによる学習では質が担保されず、主権者として必要な力が育たない
から、科学的探求学習が必要だと主張したい。
で、その科学的探求学習って何なのかというと、
中心発問をはじめ、「なぜ、どうして」という問いが多く設定されており、かつ組織的に編成されている42
学習であると。
筆者は、
社会的問題の原因や政策のもたらす結果について、より説得力のある、確かだと信じるに値する説明を求めて探求していくことのできる力を子どもたちにつけていく53
という森分さんの主張を踏まえて、
理論は、より複雑な社会的事象を構造的に説明することを可能にしてくれる…「何」「どのように」「なぜ」の…3つの問いの中で、法則や理論に触れさせることを可能にする問いは、実質的に「なぜ」だけである56
ことから、「なぜ」問いが必要であるとしている。
また、それを教師が問いかける理由として、
いきなり難題だけ与えて後はグループでそれを読み解けでは探究活動の多くがはい回る61
ことなどを挙げている。
つまり、
社会問題を分析したり追究したりする、主権者として必要な力を育てるためには、「なぜ」が効果的で、
その学習を教師が「科学的探求のルート」60に乗せることで、より良質な学習が期待できる
から、「なぜ」を中心発問とする科学的探求学習をするべきだ。
さて。
ちゃんと読んだらすごく納得したけれど、今だからこそ出る疑問がある。
1960年代まではピアジェの発達論が受け入れられていました。その頃には○○能力というものがあると考えられていました。ところが1970年代、つまり半世紀前に、それが誤りであることが様々な実証的なデータで出されました。1980年代には、ピアジェの反証実験に学術的が価値がなくなるほど一般的になりました。文脈依存性、領域固有性です。
わかりやすい例を挙げましょう。
数学を専攻した人は、一般的な問題解決に論理的ですか?
違いますよね。数学の問題解決には論理的でも、その他の分野では論理的であるかは分かりません。
「西川純のメモ」2019-08-12
よく、西川先生が
ピアジェの発達論が否定されていること
=〇〇能力なんてものはないということ
を発信されていたけど、
科学的探求学習で学んだ生徒は、科学的探求能力が身について、将来に社会問題を科学的に探求している
のだろうか?
あ、でも、
社会科の場合は、
社会科の授業での探求と、社会に出てからの社会問題の探求はニアリーイコールにすることができるのか。
(つまり、領域固有性の能力でも問題ない)
それを、よりイコールに近づけるための問いが、「本質的な問い」なのでは?
次回、「本質的な問い」について(多分)