これまでの学校にバイバイ
1993年、上野千鶴子先生が東大に移り、そこで怒りを覚える。
それを端に発して?書かれた、学校とはどうあるべきかを投げかける一冊。
学校での競争はけっして白紙の状態で、公正・平等に行われているわけではない。52
学校では公正で平等な競争が行われていて、54
この対義的なフレーズに、学校とはどのような場所か、ということが詰まっている。
学歴はおおむね親の収入に比例=学校での競争は白紙からのスタートではない
だが、一見、公正公平に行われている=成績の差は「ガンバリ」の差である
つまり、今の学歴社会においては、
学校とは、階層の再生産を、ガンバリ(成績)の差で納得させる場所
だということ。
だとしたら、学校って必要あるんだろうか?
でも、その格差を縮めることができるのが、学校でもあるはず。
先輩に、
「真正な学び」授業は、格差をマシにする
みたいな話を聞いたけど、詳しくは忘れてしまった…
さて、上野先生が東大生の何に激怒したかというと、レポートのオリジナリティの無さ。
これは、日本の教育システムのせいであるとしている。
人と違うこと、
上野先生の言葉を借りるなら、
「異見」が認められない経験を18年間もしてきたら、オリジナリティもなくなる。
そして、この情報資本主義社会において必要なのは、
情報生産性=付加価値生産性
であることから、
日本の学校制度は、「人と違っていてもよい」と言ってきたでしょうか?
と、疑問を投げかけている。
情報生産を体験する例として、授業でのフィールドワークを挙げている。
フィールドワークで集めた一次情報を、
KJ法によって整理、加工することで、新たな情報を生産する。
これによって、東大生も大きく変わったという。
「達成」の基準が他者との比較ではなく、
以前の自分との比較になった。
そして周りも、批判的ではなく、支援的になった。
2002年に書かれた本だけど、ようやく時代がこの本に追いついてきた感がある。
「真正な学び」についても、少しずつ本読んでみよう。