◆教学相長◆

2018年から教員生活スタート。日々の気づきや学びの備忘録。

これまでの学校にバイバイ

1993年、上野千鶴子先生が東大に移り、そこで怒りを覚える。

 

それを端に発して?書かれた、学校とはどうあるべきかを投げかける一冊。

 

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

サヨナラ、学校化社会 (ちくま文庫)

 

 

学校での競争はけっして白紙の状態で、公正・平等に行われているわけではない。52

学校では公正で平等な競争が行われていて、54

 

この対義的なフレーズに、学校とはどのような場所か、ということが詰まっている。

 

学歴はおおむね親の収入に比例=学校での競争は白紙からのスタートではない

だが、一見、公正公平に行われている=成績の差は「ガンバリ」の差である

 

つまり、今の学歴社会においては、

 

学校とは、階層の再生産を、ガンバリ(成績)の差で納得させる場所

 

だということ。

 

 

だとしたら、学校って必要あるんだろうか?

 

 

でも、その格差を縮めることができるのが、学校でもあるはず。

 

先輩に、

 

「真正な学び」授業は、格差をマシにする

 

みたいな話を聞いたけど、詳しくは忘れてしまった…

 

 

 

さて、上野先生が東大生の何に激怒したかというと、レポートのオリジナリティの無さ。

 

これは、日本の教育システムのせいであるとしている。

 

 

人と違うこと、

上野先生の言葉を借りるなら、

「異見」が認められない経験を18年間もしてきたら、オリジナリティもなくなる。

 

そして、この情報資本主義社会において必要なのは、

 

情報生産性=付加価値生産性

 

であることから、

 

 

本の学校制度は、「人と違っていてもよい」と言ってきたでしょうか?

 

と、疑問を投げかけている。

 

 

 

情報生産を体験する例として、授業でのフィールドワークを挙げている。

 

フィールドワークで集めた一次情報を、

 

KJ法によって整理、加工することで、新たな情報を生産する。

 

これによって、東大生も大きく変わったという。

 

「達成」の基準が他者との比較ではなく、

 

以前の自分との比較になった。

 

そして周りも、批判的ではなく、支援的になった。

 

 

 

2002年に書かれた本だけど、ようやく時代がこの本に追いついてきた感がある。

 

「真正な学び」についても、少しずつ本読んでみよう。